インクルーシブ教育の動向~伊藤駿氏の講演を拝聴して

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「インクルーシブ教育の現在とこれから~共に学び、ともに育つ社会の実現に向けて」

日弁連の人権擁護大会プレシンポジウム「インクルーシブ教育の現在とこれから~共に学び、ともに育つ社会の実現に向けて」に誘っていただいたので喜んで行ってきました。
 まず、伊藤先生は「インクルーシブとは特別なことをするのではなく、誰もが安心して過ごせる環境をつくること」だと話されていた。これは、特定の子だけに向けた支援ではなく、クラス全体に関わる考え方だということがよく分かった。背景にはサラマンカ宣言の考え方があり、世界的にも「分ける」から「包みこむ」教育へと流れが変わってきているとのこと。

 現在、日本で行われている交流及び共同学習についても「これだけでインクルーシブといえるのか?」と問いかけられたのが印象的だった。参加しているように見えても、本当に学びが生まれているかどうかを丁寧に見ていく必要があると感じた。

 特に心に残ったのは、診断名にとらわれるのではなく、アセスメントを通して子どもそのものの姿を見るという部分だった。「ADHDだからこう」「ASDだからこう」という見方ではなく、その子がどんな場面で困っていて、どんな環境だと力を発揮できるのかに目を向けることの大切さを改めて実感した。

 その流れで紹介されたのが、ギフテッドの子どもたちの例だった。表面上は困っていないように見えるけれど、実は理解されずに生きづらさを抱えていることがあるという話は、とても考えさせられた。支援が必要なのは「目に見える困り感」だけではなく、「周囲に理解されにくい特性」も含まれるのだと気づかされた。また、講義の中で繰り返し伝えていた「子どもを変えるのではなく、環境を変える」という言葉は、とてもシンプルだけれど力のあるメッセージだった。大人の関わり方や環境のつくり方を少し工夫するだけでも、子どもが過ごしやすくなるのだ。

 海外のインクルーシブ教育の紹介では、日本との差が分かりやすく、学べる点が多かった。特に人員配置の柔軟さや個別支援計画の充実など、参考にしたい部分がいくつもあった。

 最後に、伊藤先生が話されていた「インクルーシブな保育・教育に向けた第一歩は、小さな気づきと環境の工夫から始まる」という言葉が心に残っている。大きな改革をしようと構える必要はなく、目の前の子どもたちに合わせた小さな調整の積み重ねがインクルーシブにつながっていくのだ。

【12月11日・12日】第67回人権擁護大会・シンポジウム

気づき

今回の研修を通じて、インクルーシブ教育は「特定の子どもを支援するための制度」というよりも、地域社会全体の力を底上げする取り組みであるという視点を得た。伊藤駿氏の研究紹介では、日本とスコットランドの比較を通じて、多様な子どもの存在を前提に、学校や周囲の環境を整えていくことがインクルージョンの本質であると示されていた。支援の対象を狭く捉えるのではなく、学級・家庭・地域の関係性を柔らかく整え、「誰もがその場にいてよい」と感じられる雰囲気づくりが重要。

一つの大きな気づきは、インクルーシブ教育が「弱い人のための特別な支援」という枠を超え、「誰もが過ごしやすい地域をつくる基盤」であるという点だった。多様な背景を持つ子どもたちを包み込むために整えられた環境は、大人も含めた地域全体の安心感を高める。つまり、インクルージョンの取り組みは、教育施策でありながら、地域づくりそのものにも寄与するものである。

さらに、インクルーシブ教育の実践は、大きな制度改革だけでなく、教室での小さな配慮や、地域の人々の理解と協力といった“日々の積み重ね”によって支えられていることにも気づいた。これらの小さな実践こそが、地域全体のしなやかな強さにつながるのだと感じ、今後の活動においても大切にしていきたい視点である

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この記事を書いた人

市民お一人おひとりの暮らしに寄り添い、その声を受け止め、少子高齢化問題や危機管理に関する解決策を即座に提起すること。そして、市民の皆さまが「長岡京市に住んで良かった」と安心して暮らせる街、さらに皆さまも何らかの形でかかわっていける街づくりをすすめていくためにはどうしたらよいか。
これまで私たちを育て、地域を発展させてきてくださった方々、高齢者世代の方々、若い世代の方々、地域の将来を担う子どもたちが安心して生活できること、皆さまが地域での生きがいや友人を得て、笑顔でいきいきと生活していくためにはどうすればいいのかを、しっかりと考えてまいります。

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