―― 和して同ぜず、思考を手放さないということ
「和して同ぜず」という言葉が、近ごろ折に触れて思い浮かぶ。
人と折り合いをつけながら生きることと、考えまで預けてしまうことは、本来同じではない。
それは声高に訴える理念でもなく、誰かを切り分けるための批評でもない。
ただ、社会の中で立ち位置を失わずに在ろうとするとき、
考えを手放さずにいるための拠りどころになる言葉だ。
私たちは日々、多くの場面で「調和」を求められている。
職場や地域、組織、そしてオンライン上の空間でも、
波風を立てないことは一つの美徳とされる。
互いに配慮し、関係を円滑に保つことは、社会にとって大切な力でもある。
けれど、その「調和」が、
いつの間にか「同じであること」へとすり替わり、
考えることを止めてしまう――いわば『思考停止』に近い状態を生んではいないだろうか。
声を上げないことは、賛成なのだろうか。
異議を唱えないことは、納得を意味するのだろうか。
では、合意とは、いったいいつ、どこで成立しているのだろう。
特に、物事の決定が急がれるときほど、
「今は大枠を決めることが優先だろう」
「細部については、また改めて考えればいい」
そんな言葉が、いつの間にか合意を支える常套句のように使われる。
だが、説明や熟慮を後回しにしたままの判断は、
本当に人を納得させているのだろうか。
「和して同ぜず」という姿勢は、決して頑なさではない。
誰かを論破することでも、正しさを押しつけることでもない。
相手を尊重しながらも、
自分の中に生まれた違和感や疑問を、なかったことにしない態度だ。
同調しないことは、冷たさではない。
距離を取ることは、拒絶でもない。
むしろ、安易に流されないことは、
相手との関係を長く保つための誠実さでもある。
全員が同じ方向を向いている社会は、
一見すると安定して見える。
けれど、そこでは問いが生まれにくくなり、
説明する力や、受け止める力が、少しずつ弱っていく。
多様な考えが静かに並んでいる状態のほうが、
社会はむしろ強いのではないだろうか。
正しさが速い速度で更新される今の時代、
間違えないこと、傷つけないことが、
いつの間にか最優先になりがちだ。
その結果として、沈黙が選ばれ、
思考が内側にしまわれてしまうこともある。
けれど、「和して同ぜず」という言葉は教えてくれる。
完璧でなくてもいい。
すぐに答えを出せなくてもいい。
考え続けていることそのものが、
社会への参加なのだと。
やさしさと、思考は両立する。
調和と、自立も両立する。
そのことを忘れずにいられるかどうかが、
これからの社会にとって、
静かだが大切な分かれ道なのかもしれない。
沈黙と合意の境界。
それは、誰かに示すための主張ではなく、
日々の判断に迷ったとき、
自分の足元を確かめるために、
そっと立ち止まる場所でありたい。
