「市民の声」は、本当にみんなの声なのか

「市民の声を聞くことが大事だ」

地方議会では、よく聞く言葉である。
それ自体は、もちろん間違いではない。
議会が市民の声に耳を傾けるのは、当然のことだ。

ただ、現場を見ていると、ときどき立ち止まりたくなる。

議員のもとに届いている「市民の声」は、
本当に“みんなの声”になっているのだろうか。

実際に議員が接しやすいのは、

・何度も連絡をくれる人
・はっきりした要望を持っている人
・日頃からつながりのある人
・特定のテーマに強い関心を持つ人

であることが多い。

つまり、議会に届きやすいのは、
声を上げやすい人の声である。

その一方で、

・仕事や家庭のことで余裕がない人
・制度や仕組みがよく分からない人
・言っても変わらないと感じている人
・政治に距離を感じている人

こうした人たちの思いは、表に出にくい。

しかし、本来議会が考えなければならないのは、
むしろそうした見えにくい人たちの存在ではないだろうか。

それでも実際の議会では、

「市民から強い要望がある」
「現場の切実な声だ」
「困っている人がいる」

といった言葉が前に出て、
議論がその方向へ引っ張られていくことがある。

もちろん、困っている人の声は大切である。
軽く扱ってよいはずがない。

ただ、その声が切実であることと、
そのまま政策判断の中心に置くべきかどうかは、
本来は別の問題である。

その声は、どこまで広がりのあるものなのか。
ほかの立場の市民には、どう影響するのか。
今だけでなく、長い目で見ても妥当なのか。

議会には、そうした視点から考える役割がある。

ところが「市民の声だから」と強く言われると、
それを丁寧に見ようとすること自体が、
冷たい態度のように受け取られてしまうことがある。

ここに、議会の難しさがある。

さらに見落とされがちなのは、
「市民の声」は、そのままの形で存在しているわけではないということだ。

どの声を取り上げるのか。
どの声を重く受け止めるのか。
どの声を「代表的なもの」として語るのか。

そこには必ず、受け取る側の判断が入る。

つまり「市民の声」は、
ただ自然に集まったものではなく、
選ばれ、整理され、強調されたものでもある。

だから本当に問われるべきなのは、
「市民の声を聞いているかどうか」だけではない。

聞いた声を、どう位置づけたのか。
そこにこそ、議員の力量が表れる。

一つの意見として受け止めたのか。
別の意見と照らし合わせたのか。
まだ見えていない人の存在まで想像したのか。

その積み重ねがなければ、議会は
声の大きい人に引っ張られる場になってしまう。

けれど、それがあれば議会は、
今は見えにくい人たちも含めて考える場になれる。

「市民の声」は、議会にとって欠かせない。
しかし同時に、扱い方を誤れば、議会をゆがめることもある。

必要なのは、声にそのまま従うことではない。
また、声を遠ざけることでもない。

必要なのは、
その声を全体の中でどう位置づけるかという視点である。

「市民のため」も、
「市民の声を聞くこと」も、
どちらも大切な言葉である。

だからこそ、その言葉に安心せず、
その中身を丁寧に見ていく必要がある。

そうでなければ議会は、
知らないうちに「声の大きさ」に流される場になる。

そしてそれは、
本来守られるべきはずの
声を上げにくい市民を、さらに見えにくくしてしまう。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

市民お一人おひとりの暮らしに寄り添い、その声を受け止め、少子高齢化問題や危機管理に関する解決策を即座に提起すること。そして、市民の皆さまが「長岡京市に住んで良かった」と安心して暮らせる街、さらに皆さまも何らかの形でかかわっていける街づくりをすすめていくためにはどうしたらよいか。
これまで私たちを育て、地域を発展させてきてくださった方々、高齢者世代の方々、若い世代の方々、地域の将来を担う子どもたちが安心して生活できること、皆さまが地域での生きがいや友人を得て、笑顔でいきいきと生活していくためにはどうすればいいのかを、しっかりと考えてまいります。

目次