「何も言えない時代」になったのではなく

最近、ハラスメントについて、市民の方が集まる場でも話をしてほしい、というお声をいただくことがあります。

そのたびに、私は少し考えます。

なぜ今、職場や議会だけではなく、地域の集まりや市民の活動の中でも、
ハラスメントという言葉が必要になってきたのだろうか、と。

昔は、少々きついことを言われても、
「そういう人だから」
「悪気はないから」
「気にしすぎたらあかん」
で済まされてきたことが、たくさんありました。

年長者からのひと言。
地域で影響力のある人のひと言。
みんなの前で笑いにされた言葉。
親しみのつもりのからかい。
断りにくいお願いごと。

言った側は、覚えていないかもしれません。
でも、言われた側は、ずっと覚えていることがあります。

最近は、ハラスメントに対して敏感になったと言われます。
「何も言えない時代になった」
「冗談も言えなくなった」
「昔なら普通だったのに」
そういう声も聞こえてきます。

けれど、私は少し違う見方をしています。

何も言えない時代になったのではなく、
これまで我慢していた人が、
「それはつらかった」
「それは嫌だった」
「その言葉で傷ついた」
と言える時代に、少しずつなってきたのではないでしょうか。

もちろん、人と人が関わる以上、言葉の行き違いはあります。
すべての言葉を恐れていたら、会話そのものができなくなってしまいます。

でも、だからといって、何を言ってもいいわけではありません。

自分は冗談のつもりだった。
場を和ませるつもりだった。
親しみを込めたつもりだった。
指導のつもりだった。

その「つもり」が、相手にとっては苦痛になっていることがあります。

特に、立場に差がある関係では、言われた人はその場で言い返せません。
地域の集まりでも同じです。

年齢、経験、役職、声の大きさ、人間関係の広さ。
そうしたものが、見えない力関係をつくります。

言った人にとっては軽いひと言でも、
言われた人にとっては、次からその場に行くのが怖くなるほどの言葉になることがあります。

私は、ハラスメントを語るとき、加害者探しをしたいわけではありません。
誰かを責め立てたいわけでもありません。

ただ、傷ついた人の立場に立ってみること。
そこから始める必要があると思っています。

「これくらいで傷つくのか」ではなく、
「なぜ、その人は傷ついたのか」。

「昔は大丈夫だった」ではなく、
「昔は言えなかっただけではないのか」。

「悪気はなかった」ではなく、
「悪気がなくても、相手を苦しめることがあるのではないか」。

その視点を持てるかどうかで、人が集まる場所の空気は変わると思います。

ハラスメントに敏感になることは、悪いことではありません。
人の痛みに鈍感でいないために、必要な感覚なのだと思います。

言葉には力があります。
人を励ます力もあれば、傷つける力もあります。
その場に残る人もいれば、黙って離れていく人もいます。

地域の集まり、市民活動、職場、議会。
どこであっても、人が安心してそこにいられるためには、
「自分はそんなつもりではなかった」だけでは足りません。

相手がどう受け止めたのか。
そこに思いを寄せることが、これからますます大切になるのだと思います。

ハラスメントという言葉が広がったことで、
息苦しくなったと感じる人もいるかもしれません。

でも私は、それ以上に、
これまで声を出せなかった人が、少しでも守られる社会になってほしいと思います。

何も言えない時代になったのではありません。

人を傷つける言葉を、
「昔からそうだったから」
「悪気はなかったから」
で片づけない時代になってきたのだと思います。

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この記事を書いた人

市民お一人おひとりの暮らしに寄り添い、その声を受け止め、少子高齢化問題や危機管理に関する解決策を即座に提起すること。そして、市民の皆さまが「長岡京市に住んで良かった」と安心して暮らせる街、さらに皆さまも何らかの形でかかわっていける街づくりをすすめていくためにはどうしたらよいか。
これまで私たちを育て、地域を発展させてきてくださった方々、高齢者世代の方々、若い世代の方々、地域の将来を担う子どもたちが安心して生活できること、皆さまが地域での生きがいや友人を得て、笑顔でいきいきと生活していくためにはどうすればいいのかを、しっかりと考えてまいります。

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